2024/07/17 名古屋市守山区探検隊まちあるき「大森の歴史を訪ねる」。《7月活動紹介》
公開日:2024年07月21日 最終更新日:2024年07月21日
2024/07/17 名古屋市守山区探検隊まちあるき「大森の歴史を訪ねる」。《7月活動紹介》
散策コースは大森・金城学園前駅、八剱神社、大森寺、交通安全地蔵、法輪寺、斎穂社、白龍社、郷蔵、大森・金城学園前駅 (約4キロメートル)の順序です。
大森・金城学園院前駅
✿八剱神社(やつるぎじんじゃ)
神社は延暦十二年(793)に、この地方を支配していた豪族山田の連(むらじ) によって大森北八劔の地に創建後に大森の元郷に近い中ノ町田に遷座されたと伝える。
「八剣宮」の名称は熱田神宮の別宮で、宝剣をご神体とする「八剣宮」に由来すると思われるが当社がいつごろからか明らかではない。
祭神は建速須佐之男命、日本武命、天之火明命の三柱が祀られています、前二柱は「八剣宮」の祭神と同じ天之火明命は尾張氏の祖と伝える神で、境内神社尾関社の祭神でもあります。古代に尾張氏の一族である山田の連が祀った祖霊を、中世には大森城主尾関氏が受け継ぎ、「八剣宮」の信仰が取り入れられたものと伝える。
石柱 鳥居 参道
北参道
番兵
拝殿
神社由緒
天王社 秋葉社
弁財天と山岳信仰
大森天神社 天神牛
✿歓喜院大森寺(かんぎいんだいしんじ) 浄土宗 興旧山
二代藩主光友は、生母歓喜院の菩提を弔うために、寛永十四年(1637)に江戸小石川伝通院(でんづういん)内に大森寺の前身となる廟所を建立し、歓喜院と号しました。
寛文元年(1661)に歓喜院の出生地である尾張国大森村に廟所を移転し、興旧山歓喜院大森寺と寺号を改めて創建されました。
大森寺は「尾州御寺」の1つとして、江戸時代から尾張徳川家による手厚い庇護を受けました。尾州御寺とは、尾張徳川家と徳川一門の菩提寺で構成された尾張国内で最高格の浄土宗寺院を指します。
総門(山門)
参道
中門
扁額「興旧山」(扁額の文字は二代藩主光友公の直筆)
説明版
本堂
破風版(葵の紋)
歓喜院(乾の方)廟所 板塔婆
〇尾張名所図会
後編四ノ十一大森寺、法輪寺
後編四ノ十二大森寺
後編四ノ十二大森寺境内説明
✿交通安全地蔵
昭和23年(1948)名古屋鉄道瀬戸線旭前から大森間で急行列車が脱線転覆し、死者35名、負傷者154名となった。犠牲者の冥福を祈るため、「交通安全地蔵」を建立した。
交通安全地蔵尊
〇急カーブ改良工事前の「鉄橋の跡」
瀬戸市方面 名古屋方面
✿法輪寺(ほうりんじ)佛日山 曹洞宗
当寺は人皇五十六代清和天皇の貞観二年大森城主尾開勘八郎が天台宗の尼寺を建立正宗菴と称していた、文治三年後白川天皇の御代奥州額田郡黒石村信夫の城主佐藤正司勝信の室の源義経の家臣嗣信忠信二子の戦死を知り菩提の為本堂庫裡等新規建立し 「運慶作の本尊釈迦牟尼佛文脇佛として文珠菩薩普賢菩薩の三尊像を安置」した。
その後、天文三年赤津雲興寺七世大雲永瑞和尚再県曹洞宗となり普香山正法寺と改号する。
後、佛日山法輪寺と改称する。
天正十二年安土桃山時代長久手合戦の時又々兵火に罹り焼失す、江戸時代時の大老酒井忠次 公秀信公にて寛文三年より貞亨四年にわたり殿堂を新創せり現今に至る。
当寺は元々、矢田川の畔にあり、水害で現在地に移転した。
石柱
山門
本堂
ほうりん聖観世音と本堂
寺の由緒
供養塔(佐藤兄弟と母)
豊稲吒枳尼眞天
✿斎穂社(さいほしゃ)
天武五年(676)、新嘗祭の斎田が尾張国山田郡渋川に設けられ刈り取った稲を集める場所として建てられた稲穂神社が、斎穂社の由来とされる。
祭神は大年神、御年神、御食津神、事代主神、大宮売神の5柱と伝える。
千手観音堂の千手観世音菩薩(石像)は享保二年(1717)に建立され、滅罪除病の功徳が有ると伝える。
石柱 鳥居
祠(中央に斎穂社、左に天王社、右に熱田社)
千手観音堂
千手観音菩薩
検藤流之碑(昭和6年建立、大森地区に棒の手を伝えた碑)
斎田跡(渋川神社境内)
✿白龍社(はくりゅうしゃ)
水の神である龍神を祀る祠。
石柱
祠 龍神碑(自然石)
✿大森中之島郷蔵(ごうくら)
江戸時代に地区ごとに作られ、年貢米や備蓄の穀物などを入れておく蔵は郷蔵と呼ばれている。
郷蔵 表示版