かすがい市民活動情報サイト活動紹介学術・文化・芸術・スポーツ2024/2/28 名古屋市南区史跡散策路大江川緑地と新田めぐり 《2月活動紹介》

2024/2/28 名古屋市南区史跡散策路大江川緑地と新田めぐり 《2月活動紹介》

公開日:2024年04月22日 最終更新日:2024年04月23日

2024/2/28 名古屋市南区史跡散策路大江川緑地と新田めぐり 《2月活動紹介》
 参加者は、それぞれが中央線の各駅から乗車し、金山駅で名鉄電車常滑線に乗換え柴田駅で下車した。
○11時00分 乗り遅れた人があり、柴田駅の出口でやっと全員集合し、ウォーキングを開始した。
 駅を出て東に少し進むと、弘法堂がある。庭には赤ちゃんを左腕で抱き、右手で子供 の手を引いた石造の伊 勢湾台風殉職者慰霊像が台座の上に建っている。
 傍には、三十三観音、六地蔵や句碑も置かれている。
 名鉄高架橋に沿って南に進むと、天白川の堤防近くに北柴田新田・稲荷神社がある。 北柴田新田は宝暦6年(1756)名古屋・納屋町の柴田屋新兵衛が開発した新田で、稲荷神社も宝暦6年の創建である。
 稲荷神社に向かう参道には多くの朱塗りの木製の鳥居が立ち並んでおり、天白川堤防に観音堂が建っている。
 稲荷神社の参拝を済ませ、国道247号線をしばらく北上して、右折して東の方へ進むと源兵衛新田・須佐之男社がある。
 権兵衛新田は堀川に運上権を持つ材木商の神戸文左衛門の援助を受け、大高村の山口 源兵衛が宝永3年(1706)に完成させた。
 その時に須佐之男社が建てられ、記念として植えられたイチョウの木が巨木となり、 存在感を示している。
須佐之男社と出て北に進むと、せせらぎ水路がある。
  ✿須佐之男神社にて集合写真
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     --- 須佐之男神社の拝殿前 ---
 大同排水路は、以前、新田の排水路であったが、昭和58年排水路改修工事が行われ、 国道247号線東側 850mの区間は、水深10~20cm位になるように水道水を循環させ て、飛び石を置き、堰を設ける等整備し、せせらぎ水路と名付けられた。
 せせらぎ水路沿いに進み右折して北に進む。
 腹も空いてきたので食事処を探していたら、中華料理店の看板が目に入ったので行くことにした。
 総勢8名なので、店の人に聞くと分かれてならば食べられるとのことであったので、 四川みなみで昼食を取ることにした。
 2か所に分かれ、全員ランチを注文した。麻婆なすが付いたランチで、ご飯の量が少ないなと思っていたら、後からラーメンが出てきたお腹いっぱいになった。
○12時40分 昼食を終え活動再開。
 店を出て北に進み、左折して国道247号線を北に進んだところで左折して進むと、大同高校敷地内に愛と力の筏像が立っている。
 昭和34年伊勢湾台風襲来時、大同高校本館には2,000名を超える人々の避難所となった。
 大同高校の生徒は、手作りの筏で人命救助、資材の運搬、清掃、復興等で活躍した。
 この像は、純粋な生徒の愛と力の姿を長く後世に伝え、後進の励みとするシンボル として設置されたものである。台座には、伊勢湾台風襲来時の水位も表示されている。
この像の制作者は名古屋市出身の野々村一男氏で、以前、名古屋駅前のロータリー に設定されていた青年像の制作者でもある。
 像を見て右折して名鉄大同駅前を通り進むと、神明社がある。創建は、大江新田開 発時の文化元年(1804)といわれている。
 境内に、阿千輪兼吉之碑 (あちわけんきちのひ)が立っている。
 阿千輪兼吉は笠寺村に生まれ、明治40年名古屋周辺や知多半島で海苔の養殖を創業した。
 その後南区の産業として発展させ、あゆち海苔、愛知海苔として有名になり、「笠 寺漁業組合第一代理事長阿千輪兼吉之碑」が建てられた。
 神明社を出て国道を北に進むと宝生公園があり、その北側に宝生新田・神明社がある。
 宝生新田は寛政5年(1793)に開発され、水路により北から、笠寺村、本地村、南野 村の3つに区分された。
 神明社は、安政年間(1854~1860)の創建と伝えられている。
 神明社を出て国道を横断して少し南下すると大江川緑地がある。
 大江川はかつてきれいな川であったが、その後工場や家庭からの排水が流れ込み、 汚れた川になっていった。
 昭和55年約1.8kmが埋め立てられ、池、人口の川、芝生広場等が整備されて大 江川緑地となった。
 大江川緑地の中を通り、名四国道を左折して進むと元塩公園があり、その中公園を 横切り北に進む浜田南公園がある。
 公園内に伊勢湾台風殉職者慰霊之碑が建っている。
 昭和34年に来襲した伊勢湾台風により、南区で約1,500人の犠牲者を出す大惨事 となった。
 2週間後水が引くと、この辺りの田等に取り残された靴が集められ、多くの花や線 香が手向けられていたことから、それ以来くつ塚と呼ばれるようになった。
 昭和35年、この地に慰霊碑が建てられた。
 北に進み、左折して名四国道に出てさらに北に行くと、日本ガイシアリーナが見えてくる。
 森が見えてきたので又兵衛新田・稲荷神社と思い右折したが、神社はもっと西にあることが分かった。
 JR笠寺駅が見えてきたので本日のウォーキングはこれまでとし、笠寺駅から電車に乗り帰路に着いた。
  実施日 令和6年2月28日(水)晴
 参加者 高井、武藤、稲垣、渡邊、分部、名畑、伊藤、荻野(記録)


この情報は、「歴史探訪街道ウォーキングの会」により登録されました。

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